私(院長 吉田功治)のボランティア元年は1995年1月17日の阪神淡路大震災時の動物救護センターでの活動となります。
当時、震災で被災した動物達を救うため建設された神戸救護センターにおいて、医療担当責任者を任され、収容されていた動物達の治療を全国から駆けつけてくれた「動物のお医者さんたち」と共に昼夜を問わずに行っていました。

自分自身の中でも薄れてゆく記憶を残しておきたいので、ある出版物に掲載された文章から抜粋して紹介します。

 また、当時ボランティアで駆けつけていただいた全国の獣医師やスタッフに対し、立場上失礼な言動もあったかと思います。 この場を借りてお詫びいたします。

私のボランティアは「申しわけない」から始まった

 私が震災の詳しい状況を知ったのはテレビとラジオだった。過去に経験の無い大きな揺れは感じたものの自宅周囲や仕事場である病院の周囲には大した被害は見られず、あの一瞬の揺れがビルや家屋を崩壊したり、多数の死者や負傷者を生んでいたことなど思いもしなかった。テレビの画面ではよく知っているはずの町並みが廃墟のように写り、数時間前に通った高速道路が崩れ落ち、知人の家の周辺が野焼きのように燃えていた。親戚や知人の安否の確認に被災地に足を運ぶにつれ、事の重大さが目や鼻そして耳から体の中に浸透していった。
 神戸市獣医師会の中で被害の少なかった地域の仲間が集まり、自発的な会員の安否の確認作業が始まった。会員や家族の安否、自宅や病院の被害状況、周辺地域の状況が伝わってくるにつれて自分の置かれている現状がとても恵まれていることを知った。被災動物の救護活動は、申しわけないぐらい幸運だった自分が同じ神戸に暮らしながら被災した仲間達の代わりにやらなければならない事のように思った。
 「幸運だった我々が被災した仲間の分までがんばるぞ」という気持ちは、救護活動に参加していた神戸の獣医師たちの共通の想いだったのではないだろうか。

動物のお医者さんがたくさん集まった。

 神戸動物救護センターの建設、器材やフードなどの救援物資の受け入れ、避難所への救援物資の配布など肉体労働が連日続いたが思ったより早くセンターは稼動した。動物救護センターに収容される動物達の数が急増するにつれて我々はより忙しくなった。センターの診察室は朝から晩まで人や動物達が出入りしにぎやかだった。長い長い一日が終わるとカルテが山のようにたまり、治療を担当した先生たちは放心し、長い間椅子から立ち上がれなかった。
 私はセンターの診察室で獣医師の原点を見たように思う。
我々の持っている知識や技術が、ケガや病気で救いを求めている動物がそこにいるからという単純明快な理由で発揮されていた。それも全力投球で昼夜を問わず行われていた。
獣医師はボランティアで介護を努めている人達を素直に尊敬し、彼らの報告を聞き、注射や処置をして、指示を与え、看護を任せた。我々は医薬品や器具に制限はあったが、治療を求める動物に必要な治療をする心地よさの中で仕事をしていたように思う。ボランティアの人達はけっして良いとはいえない飼育環境を創意工夫と献身的な看護で補った。
 収容された多くの動物達の顔が一週間もすれば穏やかになっていた。(略)

 今になれば懐かしい思い出になってしまいましたが、あの時私の力が必要とされ、私はそれに全力で答えたという実感は、人として生きていくにあたってとても大切なことを私に教えてくれました。